LADYISM

書く練習

議論中

議論や会議中に『あれ、なんか気持ち悪い…問題がありそうな気がする…』と思って、

『この決定には問題があるので、もう一度考え直した方がいいと思います』と言ったとする。

 

『では何故、あるいはどこに問題があると思いますか?』と尋ねられたとして、

 

『何故かは説明できないんですけど、気持ち悪い気がするんです…』ということに何の意味があるだろうか。

何故気持ち悪いか、何が問題と感じたのかを相手に説明できなくてはいけない。

 

自分が何を問題と感じているのかを、相手は知るわけもない。

それを知ろうと質問をしてきているのに、その聞こうとしてくれている相手に対して、『説明出来ないけど、問題がある気がする』という返答は、相手を馬鹿にしている以外なにものでもない。

 

よりよくする為、問題を解決する為の努力を怠っている。

 

2人でつくる

パートナーは未来をつくる材料を沢山生み出すことが得意な、夢を見させるアイディアマンだ。

 

私はその未来の材料の配分や、順番を組み立てて繋げて整理して決めるのが得意だ。

 

真反対の部分もあって、似通った部分もあって、パートナーとの仕事は本当に楽しい。

 

お互い1人では出来ないことを2人で組み立てていく作業ができるということは、恵まれているなと思う。

 

これからもっと、2人じゃなくて更に沢山の人と未来をつくっていきたい。

ひとりでは頑張れない

学生時代や20代前半は

ひとりでも頑張れた

その分擦れて尖ってた

 

今は2人で支え合って生きることが

心の成長と安息を同時に感じられて楽しい

 

それからもっと

たくさんの人の為に頑張れるようになって

 

最後にまた

自分だけの為に頑張って死んでいく

自分のことを伝えることを怠らない

自分のことって分かっているようで分かっていなくて。

意見を交わしたり、時には喧嘩をすることで相手や自分のことを理解していく。

完全には理解しきれなくても、『自分はこういう性質で相手はこういう性質だから、こういう譲り合いをしよう』という歩みより方はできる。

 

でもそれには、自分がどういう人間なのかを正確に把握する必要がある。

これは本当に難しくて、私ってこういうところあるな〜とぼんやり分かっているのでは、全く相手に自分の人間性を伝えることが出来ない。

故に、自分の人間性を自身で理解できずに、相手に理解して貰おうと甘える。

 

最終的には、自分のして欲しい事が自分で理解できていないために、ただのグズリ・愚痴・悪態に繋がり、問題の解決に繋がらない。

 

『自分のベースはこういう人間だ』という認識を、できれば人生の早い段階で気付くことがより深い人間関係を築く上で大切だな。

 

それは自己評価シートでは分からない、対人間でじわじわと感じて学んでいくものであるような気がする。

じゃないと心にこない。

柵から出る

自分でリスクをとって決断するのは、勇気のいることだし他人のせいにはできないし、でもだからこそ成長できるのであって。

 

今までそういう考え方をしてこなかった、あるいはできなかった若者の小さな自我の芽生えをみているのは本当に自分のことのようにドキドキでワクワクする。

 

周りの大人たちの顔色を伺って、

本人にとって不本意な決定をしてしまう若者がいて、それを見ているのは少し辛い。

私ももう大人なのだから、若者にそういったプレッシャーとか無意味な気遣いをさせたくないな、と思うわけです。

自分の脳の構造

自分の脳の構造って人と違うのかな?

そんなことを考えたことありますか?

私は性別面に関して苦痛に耐え、悩み抜いたことがあまりなくて(もしかしてあったのかもしれないけど、考えない方が良かったと判断したのかあまり心に刻まれていない)、

『脳の構造が違うから自分の性がマイノリティであることは仕方ないんだ!自分はこういう人間だから一生付き合っていくしかないんだ。』とハッキリ認識して生きているわけではない。

『いろんな人がいるもんな~、自分がその時なりたいと思える自分があればそれでいいかな~』位の感覚でしか持ったことが無い。

老後はダンディな髭紳士で生活すると想像しても、別に心は苦しくない。

 

だから『あなたもこういう種族で私と同じなんだね!』という共通認識をしっかり感じたことが無い。

つまり『私は皆とは違う部分があるんだ』という認識もぼんやりしていて、

頭のどこかで、みんなと一緒な部分もきっとあると期待して生活をしていた。

 

だけど今日、『ある部分は私は普通とは違う』としっかり認識してしまう出来事があって、それは、本屋さんで偶然手に取った本を読んでいてボロボロ涙がこぼれてしまって。

 

性のことではなくて、また別の精神疾患についての本なのだけど、読めば読むほど自分に重なって、正直認めたくないところもあって、読んでいてものすごく辛くなった。

でも心のどこかで安心している自分がいて、これは、

『あなたは性同一性障がいです』とか

『あなたはADHDに分類される脳を持っています』とか

そういう診断をされたときの感覚と近いのかな。

ガツーン。

 

今までは、『そういったカテゴリーや病名なんて性格とか個性みたいなもんじゃん、何で他人にカテゴライズされなきゃいけないの?』って口では言ってきたし頭でもそう思ってきたんだけど、実感としてまだぼんやりしていた部分があった。

(口ではそう言っているけど、心が震えていない)

 

偶然(必然かもね)手にした本に、『あなたはこういう人間なんだよ』と教えられて、押し寄せる絶望と不安と小さな安心。

私は、私の脳と、ちょっとだけ扱いが面倒なこの脳と生きていく。

 

本に教えられるとは思わなかった。もっと知りたい、自分がどんな人間なのか。

それを知ることが、この少し面倒だけど愛おしい脳で生きながら、いかに謙虚になれるかということだ。

 

母からもらった図書カードで買う心苦しさ。

心苦しいけど、成長するために買わせてもらった。

いまだに、というか一生、

母に育てられていると感じる。

正義

自分や自分の大切な人を守る為には

手段を厭わないのが正義なのだろうか。

 

勿論それが正義だという人もいると思う。

そんな中で戦っているというぼんやりした自覚はあったけど、いざそういう『正義』にぶち当たると本当に心が荒む。

自分の正義は、もしかして誰かを傷つけているのだろうか。傷つけているのだろうな。

辛いなあ。

 

山で暮らすか。