LADYISM

書く練習

さよなら

さよならー!!!

さよなら東京ー!!!

 

突然ですが、私はこの夏東京から引っ越すことにしました。

 

引越し先はなんと、能登半島

 

縁もゆかりもない石川県なのですが、大自然と魚介類ととろりと甘い日本酒と補助金につられ、思い切ってゆくことにしました。

 

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憧れの専門学校に行くため上京して、それから10数年過ごした東京。

色々あった…本当に色々あった…

たくさんの事を経験できたし、たくさんの人と知り合えた。

私のこの特異体質を持った自分を、東京にいることでもっと好きになれました。

日本中の変わり者達が居場所を求めて集まった母校文化服装学院

今までお付き合いしてくれた恋人たち。

私を使って作品撮りに使ってくれたカメラマンさんやアーティストさん。

チャンスをくれた大人のおじさん。

仕事仲間として、一緒に働いてくれた仲間。

そしてそして数えきれないほど仲良くしてくれた友達。

Twitterで仲良くなって、リアルで会えるのがめちゃ楽しくて嬉しかった。

他人に無関心っていうけど、結構人と良い距離保てる、東京っていう街。

 

結構己の道を貫く!!って意気込んで東京に出てきたけど、なんだかんだいい感じに丸くなれつつあるかな〜て感じの今日この頃です。

 

刺激の多い20代だった、20代を東京で過ごせて本当に良かった。

 

友達と気軽に会えなくなるのと、色んなお店を見てまわれないのと、美術館に行けなくなるのが寂しいです。

でも何故か、最近近所に空港が出来て、東京には1時間で行けるみたいなので、良かった。

 

そして、友達には是非、うちに遊びに来て欲しいです。

海がバチバチに綺麗なので、海水浴してバーベキューしよう。

お祭り行って、スイカ食べて、雑魚寝しよう。

 

今はいい時代だね、遠くにいてもSNSで生存確認できる。

でもやっぱりたまには生身に会いたくなるから、またハグしよう。

努力

私には血の滲むような努力をした記憶がない。

 

周りの人から勧められたり、自分で面白そうだと思ったものはたくさん手を出してきたので、色々なことを経験できてきた今までだと思っています。

それ自体は後悔してない。

 

『努力した』というより『楽しそうなことをやった』という方が近くて、そしてそうして取り組んだことは元々手先や感覚が器用なこともあってか、そこそこ良い結果になってきた。

だからある程度自信(自分を肯定したかっただけ?)を持っているんだと思っていたけど、最近それがフワフワしている気がしていて。

 

それは今となっては『努力』とは胸を張って言えないのです。

立ち向かうのにちょっと躊躇するようなことに立ち向かうのが『努力』だと思うし、そうして乗り越えたことはめちゃくちゃ自分の中で自信になるんだろうな。

 

小学中学は何故か成績が良くて(ゆとり教育だったから簡単だったのか?)、家できちんと机について勉強しまくることもなかった。宿題やチャレンジは普通にやってたか。

 

授業にあまりついていけなくなったのは、中学の終わりから高校生くらいからかな…

まあそこで『努力』に切り替えれば、きちんと目標に向かって頑張る癖みたいなものもついたのだろうけど、その頃から『自分の気持ちに正直に』『今を楽しむ事が一番大切』みたいな考え方に流れて固定されてしまったんだよな。

楽しいのは読んで字の如く『楽』なのである。

 

両親も私を認めてくれていて、「あんたは好きな事で力が湧くタイプ」「好きなように生きろ」と応援してくれる。恵まれすぎだろ。

 

そこに前述の、楽しくて、楽しいもんだからなんとなく上手くできちゃう流れ、あまり深く物事を考えずにルンルン取り組む癖みたいなのが出来上がって、思い上がっていたのだろう。

 

もちろん私は結構自分が好きだ!

アホなところもあるし、あまり怒らないとことか人とコミュニケーション取れやすいこととか、基本ポジティブだし!

でもちょっとだけ、自分の内側をしっかりさせたいなぁと思い始めているのです。

すごくない?!大人じゃない??!

 

最近は前より本をたくさん読むようにしています。自分のあまり興味のない本も詰め込むと、結構いろんな新しい発見などもあったりして、ちょっとだけキツイけどこれ続けたら自信持てるんじゃね?って少し思ったりもしてるので、続けてみます。

宝玉

久しぶりにきちんとワンピースを着て、ネックレスをつけて前髪を整えて。

これは実はかなり労力を要するのです。

 

美が1番大切な人にとってはそれに多くの力を割けるので、大変だけど楽しい。

子どもさんや家庭が自分の中での優先順位が高いと尚更、自分のことに時間をかけることは厳しくなっていく。

 

ゲームの中のHPとかMPって現実にもあると思っていて、1日の中で持ってるポイントを使って人は生活している。

それを私は『宝玉』と呼んでいて、寝ると回復する。でも翌日回復しきれないものは週末に回復させたりする。

それよりも1日の中でいつ何に宝玉を使うのか決めている。大変な作業ほど宝玉の消費が大きい。

 

自分の人生、何が大切で何を優先するのか自分で決めないと手から溢れてどうしようもなくなる。

ちなみに私の宝玉は25個で小さめ10センチ台、オパールのように乳白色ベースで虹色の光を小さく放つ。

小さめなんでそこそこ回復も早い。

 

あなたの宝玉はどんな宝玉かな〜。

楽しいこと

自分の心が喜ぶことを我慢するのは悲しい。

 

その事をやれば自分の心が喜ぶことを知っているのに、今怠けたいからとか遊びたいからとか無駄遣いしたいから等の理由で避けるのはもっと悲しい。

 

何に触れれば自分の心が喜ぶのか分からない(人はなかなかいなそうだけど)のは一番悲しい。

 

 

ゴロゴロしていても心は満たされず、疲れが取れる訳でもない。寧ろ疲れさえ忘れて、寝なきゃいけないのにずっとやっちゃう…!みたいな事で人間は満たされるんだと思う。

結局これ出来てればいつ死んでもいいんだよな極端な話。

 

自分にとって何が楽しいのか分からない人は、とりあえず色んな事に挑戦してみるしかないけど、手当たり次第ではなくてやっぱりまず最初は自分の心に『何してみよっか、どこ行ってみよっか』って聞いてみる事が大切なんじゃないかな。

何も返ってこないなら色んな本を読む。

 

やりたい事をいつかやるために、我慢して日常を過ごすなんて本末転倒だ。

接する人によって

私は自分自身のことをどちらかと言うと聞き役だと思っていて(そんなに話すこともないしw)、しっぽりした会になる事がおおいのだけど、先日会った子と話している時はめちゃくちゃ言葉がベラベラ湯水の様に出てきた。

 

これはなんなんだろう。

好みが合うということでも無さそうなのだけど、自分の芯が通っている人や、自信があって伝えたい想いがある人と話しているととても気持ちが良い。

(口上手な営業さんにヤラれてしまうタイプ)

 

いくら自信があるといっても相手との距離感が掴めずグイグイくる人との会話はとても苦手だし、とても静かな人との会話も物凄く気を遣ってしまう。

 

話題によってとか、面白い話とかじゃないの。

 

戦闘モードの人が自分の目の前に現れた時『ウラァ!!!』って向かっていけるのに、戦う準備が出来ていない人逃げ腰のフワフワした人とは戦えない感じ…すまねぇ俺にお前は殺せねぇ…

 

ただ『気が合う』と言ってしまえばそれまでなんだろうけど、初めましての人なのに昔からの友達みたいに話せる人っていて、これだから人との出会いは面白いなぁと思う。

なにごとも経験?

なんでも経験とかいうけど、経験を役に立てられるかどうかって本当その人次第だよな。

ただ『経験を積むこと』『なにかをやること』が目的になって、手当たり次第に色々経験してもどうなんだろ。

 

その前に自分はそれを『経験してみたいのか』を自分で決める必要がある。

経験したいのかよくわかんないけど、いつか読んだ本で、どっかで誰かが『なにごとも経験、人生無駄になる事なんてない』って言ってたから、とりあえず興味もないけどやってみるか…。

で、なにを得られるのか…?

 

経験するにも何か考えがあって、やってみて、楽しみとか痛みとかを知って、次に生かす。

そんなに必要以上に見つめ直す必要もないけど、『これはナシやな、やってはいけないことやな』とか『おっこれはいいやん、楽しいやん、じゃあこれもやってみたら楽しいんじゃないん?』みたいにどんどん自分の世界を広げていく。

間違えたと思ったら、ちょっと頭を冷やしてまた違う方向に進めてみる。

 

やりたいことない人っているのかな。

私はあるなーやりたいこと沢山。

やりたいこと別に無い人はどうすればいいんだろう。

やりたいことが無いことは悪いことではないけど、じゃあどうするのか、どこに向かうのかは自分の心と向き合って決める必要があるのだろうな。

やりたいことないんだったら、やりたいことが見つかるまで、とりあえず毎日を一生懸命生きてみる…とか…?

で、いつかやりたいこととか興味湧くものが現れるのを待つ…?

いや、『私はやりたいことが無いんだ』って自分の中で腑に落ちた人は待たなくてもいいのか。その人の中ではやりたいことが無いことは悪では無いのだから。

 

え、どうなんだろう、自分がもしなんのしがらみからも解放されて、生活費を稼がなくても良いのだとしても、やりたいことない人っているのかな。

仕事一筋のサラリーマンが定年退職して、自分とは何のために生きてるのか…ってなってしまうようなことを聞いたりもするのだけど、それに似たようなことなのかな…。

 

とくにやりたいことが無くて、でもそんな自分が好きだし、毎日楽しいです。っていう人と話してみたいな。

 

※3/16追加

あの時経験してよかったなぁ、って思うのは過ぎた後なんだよな。『経験』はストックしようとするものではなくていつのまにかストックしてるものなんだよ。

経験を積むためならビルから飛び降りるか?人を殺めるのか?

君は何のためにそれをしたいんだ?

自己肯定感はどうやったら高くなるのかな〜

自己肯定感についての、人の呟きをみて、自分の自己肯定感が低かった頃のことを思い出した。

 

いつか書いたことがあったかもしれないけど、口癖は『どうせ』だった。

物事を捻くれた見方をしていたし、自分なんて何もできないと思っていた。

 

そんな自分を変えてくれたのは(これも前に書いた気もするけど)ジャズダンスライブだった。

先生がカッコ良かったのは勿論だけど、今思えば出演しているみんなが素敵に輝いてた。

 

先生が私を変えてくれたのだと思っていたけど、多分変えてくれたのはあの空間なのだと思う。

舞台で演じる人は、自分のこと否定している場合じゃない。恥ずかしいなんて思っている場合じゃない。

楽しいから舞台に出ていて、自分を『見て!!』って感じで。

 

そんな人たちから伝わるパワーって半端ないんだよなー。

その空気感に負けちゃったんだと思う、ウジウジ考えて否定ばっかりの自分は。

 

私の自己肯定感がグンと上がったのは、そういうキッカケだから、体験に基づいて言うのであれば、なんか自分のことが好きになれない人は、自己肯定感が高い人が沢山いるところに行けばいいんじゃないかな。

 

勿論誰か目標だったり憧れだったりする人がいるのも素敵なことだと思う。

でも人って完全じゃないから、その憧れとする人にも色んな面があって、それが見えた時失望しちゃうんじゃないかな。

『あ〜やっぱこの人も、そうでもないんじゃん』って。

でもその『そうでもないんじゃん』が、『この人も私と一緒で人間味があるんじゃん』ってうまく働けばいいけど、まあ自己肯定感低いときにはそんな風には考えらんないんだよね。

 

『あなたなら私を救ってくれると思ったのに』

 

ってなっちゃうんだよね。そしてその人に失望して、そんな人に憧れた自分にも失望して、自分が自分の事を好きになれないことをその人の所為にして。

 

だから自己肯定感が高い人が沢山いるところに行けば、別に誰の所為にできるわけでもないし、自分が自分を嫌いなのは自分の所為だなって気付くと思うんだよね。。。

 

と、ここで簡単に考えて欲しくないのは、『〈私にとっては〉自分を舞台で表現しまくっている人達を見ることで自己肯定感が上がっただけ』

なので、これを読んでいるあなたにとっては、何の意味も為さないかもしれないです。

もしかするとあなたにとっては『しっかり自分の頭で考えて、人と対話しようとしている人たち』と触れ合うことで革命が起きるのかもしれないし、『植物から人間の生き方を学んでいる人たち』とか『人間は愚かだけど、愚かなりに一生懸命生きようとしている人たち』との出会いなのかもしれないし、はたまた『渋谷のクラブではちゃめちゃに楽しそうなパリピ』かもしれないってことです。

あなたの人生は、私の人生とは違うはずだからね。

 

で、どうすればいいの?って言われても困ってしまうのですが、今夜考えたことでしたので、流してください。