自分の尺度と人の尺度
わたしが下品と感じることと
人が下品と感じることは違っていて
どっちがどうとかを討論するのはナンセンスだ。
決めるのは自分の中にある基準のみ。
結局はシンプルに好きか嫌いかだけなんだと思うので、嫌いなものは何故嫌いかをスッキリ理解して、好きなもののシェアを色んな人とできると楽しいし知見が広がるね。
自分でやってることだから
台風、いやですね。
いやだけど、自然の事なので人間側が融通をきかさなきゃいけないんですが、人間にも仕事というものがあります。
台風が来たら濡れたくないし、帰られないのも困るし、何より下手すると命も危ない。
でも。
今思えば、台風だからこそおじいちゃん達が田んぼの様子見に行くとか当たり前なんだと思う。
昔はそんな気持ちなんて分からずに、『危ないし雨なんだから家にいればいいのに!!』って思ってた。
けれども、丹精込めて育てた自分の子供みたいなものだよ、自分で責任持ってリスクとってやってる人は田んぼの様子、見に行っちゃうよね…。
きっと、放置なんてできないんだろうな。
自分でやっているという自覚があれば、周りの状況は二の次です。
愚かな選択かもしれないけど、私はきっと明日も雨ざらしで事務所に行きます。
人は、人を生きる
性別とか役職とかを生きる前に、
人は、人を生きる。
自分を生きる。
シンプルな事だけど、社会でもがいているととっても難しいことに思えてくる。
私は、自分なりに見つけた自分の中だけの枠や基準があるから、ペースが崩れた時そこに収まればだんだん心は治癒するんだけど、男とか女とかお父さんとかお母さんとか課長とか部長とか大きなぼんやりとした基準の中(普通とかいう幻想の中)にいると自分がだんだん見えなくなってきちゃうんだよな。
というか、そちら側から自分を見つめても何にも見えてこないんだよな。
だから私は性別のことでぐずぐず考えるのをやめたんだ。
そっちから入らずに、自分主体で社会を見たら、なんかとてもシンプルだよ。
自分がどうしたいか、好きか嫌いか、醜いか美しいかだけ。
社会から見た自分だと追っつかないから、ひとつの、自分という人間を生きることから地道にやっていけばいいと思う。
意味わかんね〜!
2人のじいちゃん
父方のじいちゃんは、詩や書道、俳句、絵画、小説など、いろんな分野に渡った趣味を持っていて、センスが磨かれるとても充実した人生だったんだろうと思う。
先日お墓掃除のために実家に帰った時、じいちゃんの若い頃のアルバムを見つけた。アルバムと思ったけど実は、じいちゃんが製本した旅行記だった。
自分たちで写真を撮って現像したものと、ガリ版(コクリコ坂〜!)で文章を記したもので書物にしてあった。
途中車を止めてトイレ休憩(道端で立ちション)してる写真の横に『一斉放水!』とかコメント書いてあって、今の若い人と全然変わんないじゃん、アホっぽくて好きって思った。
背表紙の裏には、〇〇年初版発行 とか 編集者 〇〇(じいちゃんの名前)など、細かい所までこだわっていて、同じ血を感じた。
ずっと、黒縁メガネにベレー帽をかぶっていたから手塚治虫先生が多分好きだったんだと思う。
母方のじいちゃんは、若い頃からずっと左官職人の弟子入りで、めちゃくちゃイケメン。
グレゴリー・ペックに似てた。今はハンニバルのレクター博士そっくりだけど。
これも実家に帰った時に聞いた話なんだけど、元々左官職人だったんだけど、見よう見まねで大工の仕事も始めたらそれがうまくいって、発注が山のように来たらしい。
見よう見まねで何となくやっちゃうところが私に似てるなと思った。
もう80過ぎるのに、ディズニー好きだし、とにかく好奇心が旺盛なところも私に受け継がれていて、そこ受け継いで良かった〜!って感じだ。
父方のじいちゃんは不動産屋さん、母方のじいちゃんは大工やさんの棟梁。
2人とも自分で事業をやっていて、しかもそこそこ成功していて。
めちゃ気合い入ったんだよね。
体力不足
体力のつけ方が分からず
ハードスケジュールに発熱でダウン…
メリハリをつけた生活を送らないと頑張りすぎてもダラけすぎても後々不具合がでる。
自己管理の大切さがとても身に沁みる。
ブログも今日は少しお休み。