自分の脳の構造
自分の脳の構造って人と違うのかな?
そんなことを考えたことありますか?
私は性別面に関して苦痛に耐え、悩み抜いたことがあまりなくて(もしかしてあったのかもしれないけど、考えない方が良かったと判断したのかあまり心に刻まれていない)、
『脳の構造が違うから自分の性がマイノリティであることは仕方ないんだ!自分はこういう人間だから一生付き合っていくしかないんだ。』とハッキリ認識して生きているわけではない。
『いろんな人がいるもんな~、自分がその時なりたいと思える自分があればそれでいいかな~』位の感覚でしか持ったことが無い。
老後はダンディな髭紳士で生活すると想像しても、別に心は苦しくない。
だから『あなたもこういう種族で私と同じなんだね!』という共通認識をしっかり感じたことが無い。
つまり『私は皆とは違う部分があるんだ』という認識もぼんやりしていて、
頭のどこかで、みんなと一緒な部分もきっとあると期待して生活をしていた。
だけど今日、『ある部分は私は普通とは違う』としっかり認識してしまう出来事があって、それは、本屋さんで偶然手に取った本を読んでいてボロボロ涙がこぼれてしまって。
性のことではなくて、また別の精神疾患についての本なのだけど、読めば読むほど自分に重なって、正直認めたくないところもあって、読んでいてものすごく辛くなった。
でも心のどこかで安心している自分がいて、これは、
『あなたは性同一性障がいです』とか
『あなたはADHDに分類される脳を持っています』とか
そういう診断をされたときの感覚と近いのかな。
ガツーン。
今までは、『そういったカテゴリーや病名なんて性格とか個性みたいなもんじゃん、何で他人にカテゴライズされなきゃいけないの?』って口では言ってきたし頭でもそう思ってきたんだけど、実感としてまだぼんやりしていた部分があった。
(口ではそう言っているけど、心が震えていない)
偶然(必然かもね)手にした本に、『あなたはこういう人間なんだよ』と教えられて、押し寄せる絶望と不安と小さな安心。
私は、私の脳と、ちょっとだけ扱いが面倒なこの脳と生きていく。
本に教えられるとは思わなかった。もっと知りたい、自分がどんな人間なのか。
それを知ることが、この少し面倒だけど愛おしい脳で生きながら、いかに謙虚になれるかということだ。
母からもらった図書カードで買う心苦しさ。
心苦しいけど、成長するために買わせてもらった。
いまだに、というか一生、
母に育てられていると感じる。
正義
自分や自分の大切な人を守る為には
手段を厭わないのが正義なのだろうか。
勿論それが正義だという人もいると思う。
そんな中で戦っているというぼんやりした自覚はあったけど、いざそういう『正義』にぶち当たると本当に心が荒む。
自分の正義は、もしかして誰かを傷つけているのだろうか。傷つけているのだろうな。
辛いなあ。
山で暮らすか。
人の気持ち
人の気持ちが分かる人というか、
人の気持ちに寄り添える人になりたい。
人の気持ちは分からないから、
気遣いができたり人の話を聞こうと思えるのではないかな。
人間関係において、人の気持ちになって考えるというのは独りよがりに陥ってしまいがちだと思うので、人の気持ちを“いろんな方面から”考えられる人、というのは念頭に置いておく必要がありそうです。
開くと痛い
思っていることを相手に伝えられる人って、どのくらいいるのだろうか。
そして、そうすることを善しとしている人はどれくらいいるのだろうか。
世の中には本当の事なんて知りたくないという人もいる。
真実はどちらでもよくて、本当の気持ちを相手に伝える事よりも、相手の顔色を伺いながら生きることを選んだ人。
その人達の気持ちも分かる。空気感は大切だし、協調性を乱すことはある見方をすれば組織の破滅に繋がる。
ただ私は、出来ることならばなるべく自分の気持ちを相手に伝えて生きたい。
心はとても柔らかいので、ストレートな気持ちに触れると当然痛い。
けれど自分が真実に触れようとするその痛みを知っていれば、どういう伝え方をすれば相手へのダメージを少なく出来るかを考える。
そうやって、痛いけどずっとそれを繰り返して生きていたい。
できれば皆んなが伝えたいことを伝えられる世の中であって欲しい。
皆んなが慣れたら痛いことも少なくなるだろうしね。
繊細さの度合い
中学生の頃にジャズダンスに初めて触れて、
それまでのネガティブで自己嫌悪しかしない私は吹っ切れた。
今までの自分より、自分のことがもっと好きになれる感覚は、すごく気持ちが良かった。
中学のクラスの出し物でダンスの振り付けを任された。
私は根暗な自分を変えてくれたダンスは、きっと誰でも皆んなの心を溶かすと思った。
振り付けを考えるのも教えるのも楽しかった。
でもそんな中、クラスの男の子のなかで1人だけ全然思うように上手くできない子がいた。
上手く踊れないだけではなく、その子は恥ずかしそうにもじもじして一生懸命取り組んでくれなかった。
それがとても私は嫌だった。
分からないながらも1人で考えた振り付け、毎日の練習指導。
私と、私の大好きなダンスを馬鹿にされている気がして、とても悔しかった。
今思うと、分からなくても出来なくてもいい、けれど、一生懸命やって欲しかったのだと思う。
私は彼に、『ちゃんとやって、いい加減覚えてよ』と強要した。彼はずっともじもじしていた。
その光景を見ていた担任の先生が『お前が簡単に出来ることでも、皆んながそうとは限らないんだ。相手の気持ちを考えないといけない。』と叱ってくださったことを今でも思い出す。
私は、彼がどんな気持ちでいるのかを聞くこともしなかったし、どこが分からないのかも聞かなかった。
私は私の好きなダンスを、彼に伝えられなかった。それどころか、彼はダンスを嫌いになってしまったかもしれなかった。
その頃の私はなぜ私が叱られなければならなかったのか分からなかった。
今では頭では理解しているつもりだけど、なんの気無しに口にした言葉が相手を傷つけたり、理由が分からない時にどうしても自分の正当性を主張したくなる時がある。
人と何かに取り組む時、その様な過ちをしないように強く意識して人と接さないといけないと強く思う。
人によって、物事や言葉の受け取り方は違っていて、それは勿論悪いことではないし、相手に強要されることでもない。
『傷付いた』と相手に簡単に伝えられない人もいる。
奢ることなく客観的な視点と相手への尊重を忘れずに生きたい。
色んな家族の形
私の家族は仲が良い。
でも昔からめちゃくちゃ仲良しだった訳じゃなくて、それなりに紆余曲折ありました。
家族といえど自分以外の人の集まりなので、何かしら問題は出てきます。
いっぱい泣きました。
いっぱい泣かせました。
大嫌いな時もありました。
でも心は離れませんでした。
今では胸を張って大好きな家族と言えます。
無理に取り繕うことも無くていい。
伝えたいこと伝えればいい。
顔色を伺わずに、でも相手の気持ちも考えて付き合えばいい。
自然に、でも逃げずにきちんと向き合えばいい。
それは家族だけではなくて、全部の人間関係に言えることだと思う。
自分から心を離さなければ、いつかその家族ごとのあるべき形がみえてくるのではないかなぁと思います。
別に必ず仲良しで無くてはいけないこともない、ある程度距離を置いた方がよい関係を築けるならそれもそれでよし。